中遺跡

弥生遺跡の上に建つ阪合部小学校


写真は新校舎建設に伴う事前発掘調査風景で、旧校舎の北側には吉野川が流れる。

 五條市内では、原・滝・上島野・野原・中などの縄文・弥生遺跡が知られています。いずれも、吉野川の河岸段丘上に見られ、発掘された狩猟具や漁撈具、農具などから当時の人々のくらしをうかがい知ることができます。こうした遺跡の上に、阿太小学校(原遺跡)、旧野原小学校(野原遺跡)、そして阪合部小学校(中遺跡)が存在しているというのも面白いものです。
さて、中遺跡の存在が広く知られるようになったのは、1956(昭和31)年の阪合部村立阪合部小学校の建設がきっかけでした。当時同校の助教諭であった堤昭二氏が、縄文土器や弥生土器の破片、石器などを多数発見しています。
 そして、今度は2003(平成15)年の新校舎竣工にあわせて、2001年から五條市教育委員会による調査が行われ、弥生時代中期の竪穴住居跡が全部で18棟も確認されました。また、弥生時代を象徴する石包丁も見つかっており、以降何世代にもわたって豊かな稲作文化が花開いていったと考えられます。
 発掘された遺構群は、新校舎の下で再び眠りにつきましたが、そうした歴史の上に立つ学舎で、子どもたちが阪合部地区の文化を受け継ぎ発展させていくことを願っています。

中遺跡の概要


弥生時代の竪穴住居跡で、5つの住居跡が複合している。
 
中遺跡から出土した石包丁(弥生時代)     中遺跡から出土した縄文土器

発掘時の写真の上に、現在の校舎を赤線で示しています。

○ 弥生人の生活をしのばせる、数多くの遺物が出土しました。とくに石器は種類が豊富で、狩猟・漁撈とともに稲作を行っていたことがわかりました。また、二上山サヌカイトの製品・未製品・剥片が多数見られ、遠隔地と交易・交流しながら豊かな生活を送っていたようです。一方で、戦闘用の武器となる大型石鏃や打製石剣の存在は、当時の社会が軍事的に緊張状態にあったことをうかがわせます。
○ 保存状態が良好な弥生中期の竪穴住居跡が、数多く重なり合っていました。このことから、家を何度も建て替えながら長期間安定して栄えていた、集落の一端が明らかになりました。多数の住居跡が群をなして発見された例は、五條市内では初めてで、奈良県内でもほとんどありません。
○ 弥生時代の集落としては、吉野川上流の宮滝遺跡(吉野町)や原遺跡(五條市原町)よりもやや規模が大きく、かつ長期間続いたようです。中遺跡は、奈良盆地と和歌山平野を結ぶ重要拠点に位置した集落であったといえます。
○ 縄文時代晩期から平安時代末までの約1800年間にまたがる遺物が出土しており、当地には古くから人々が住み続けてきたことも明らかになりました。

【引用文献】『見えてきた弥生のくらし −中遺跡の発掘調査成果−』
       平成14年10月26日 市立五條文化博物館 発行
【写真提供】五條市教育委員会

中遺跡竪穴住居の復元

2016(平成28)年、五條市「特色ある学校づくり」支援事業の指定を受け、ふるさと学習の一環として中遺跡の教材化に取り組みました。
○ 竪穴建物(竪穴住居)の復元は、6年生(2016年度卒業生)が中心となり、総合学習の時間を利用して取り組みました。
○ 五條市教育委員会文化財課のご協力を得ながら博物館学習や出前授業を通して、まず、中遺跡について学びました。
○ 中遺跡で発掘された20棟以上の建物跡のうち、最も小さいクラスのもの(直径約5.2m)をモデルにしました。
○ 竪穴建物(竪穴住居)の復元にあたっては、地域住民の方から柱材や屋根材などの提供を受け、萱刈りから茅葺きまで谷いきいきクラブの皆さんのご協力を得て完成しました。


2016年12月に完成。
 
住居内には炉も。              煙を逃がす穴。

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